前稿はこちら→「意欲の低い学生にいかにアクティブラーニングを行うか」
筆者が大学生の頃に受けた講義の中で、担当教員が教科書をひたすら音読するだけという講義があった。教授は毎週90分ただひたすら教科書を1行目から順に読むだけで、教室にはマイクを通した教授の声だけが響いていたのを覚えている。
授業や講義がALで「ない」というときには、これくらい徹底して受講生のことを無視したものを意味するのだろう。つまり、受講生とある程度のやりとりをしているなら、それは、その程度はアクティブで「ある」ということであり、ALというのは程度の問題だというのが筆者の見解である。このようにALを絶対的にかくあるべしというわけではなく相対的なものであると捉えたなら、教員による一方向的な講義形式というALでは「ない」ものと、双方向性が生まれるALで「ある」ものとで、何が変わるのだろうか。その一つとして筆者が常々意識しているのは、平等性という点である。
受講生全員に対して一律に同じ知識を提供するのとは違い、ALの場合、受講生の意欲や態度によって提供物が異なることがある。講義中に質問してくる学生と全く質問をしない学生とでは、我々教員が提供する(あるいは、できる)知識に差が生まれてくることは想像に難くないだろう。そもそも全員に平等に発言させるというのは、それだけでも実現するのはかなり困難である。では、ALにおいて教員は受講生を平等に扱えるのだろうか。あるいは、扱うべきなのだろうか。
ALとはその性質上、受講生を(表面的な意味においての)平等に扱うことなどできないというのが筆者の見解である。ただし、ここで平等に扱えないといったからといって、もちろん不公平・不平等に受講生を扱って良いということにはならない。あくまで、その「差」は、受講生の意欲を基準にしたものであるべきだというのが筆者の考えである。