1.はじめに
筆者が初めて本サイトにエッセイを掲載いただいて以降、高校・大学の教員から数多くの質問を頂戴する機会に恵まれた。それらの質問の中で最も違和感を抱いたのは、「どうすれば学生(生徒)をアクティブにさせることができますか?」という質問である[1]。
「アクティブにさせる」。これほど奇妙な表現があるだろうか。周知の通り、アクティブラーニング(AL)のアクティブとは、「学修者の能動的な学修への参加」を意味する。つまり、アクティブにさせるとは、「能動的に学修へ参加させる」ということであり、すなわち、「教員の手によって(=受動的に)学生・生徒が能動的になる」という自己矛盾を孕んだ表現になってしまうのである。
そもそも文部科学省はALを「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称[2]」と定義しているだけであり、この定義を見ると、グループワーク等の方法・仕組みさえ取り入れれば自然と学修者は能動的に「なる」とでも言わんばかりである。そのため、多くの教員が、グループワーク等の仕組みを取り入れたにも関わらず学生・生徒が能動的にならないことに頭を悩ませ、上記のような質問が出てきてしまうのかもしれない。そこで本稿では、このような自己矛盾ともいえる疑問が生じる背景について言及した後、筆者自身が試みている活動を通して、「学生・生徒を能動的にさせる」のではなく、「学生・生徒が能動的になる」ためにはどうすれば良いのかに触れたいと思う。
[2] 新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)(平成24年8月28日)用語集
2.やってもらって「当たり前」からの脱却
私が勤務する大学で新入生相手によくする質問の一つに、以下のような会話がある。
坂田 「修学旅行はどこに行きましたか?」
学生 「○○です」
坂田 「行き先は誰が決めましたか?」
学生 「高校の先生です」
坂田 「日程は誰が決めましたか?」
学生 「先生です」
坂田 「行程表は誰が考えましたか?」
学生 「・・・先生です」
坂田 「旅行会社との打ち合わせは誰がしましたか?」
学生 「先生・・・だと思います」
坂田 「で、あなたは、それだけ色々としてくれた先生に対して、修学旅行を終えてから少しでも感謝の気持ちを持ちましたか?」
学生 「・・・いえ、やってもらって当たり前だと思ってました」
この、「やってもらって当たり前」というのが曲者なのである。大学生だけでなく高校生もそうであろうが、学校行事や授業・講義、各種予定に至るまで、学校側が企画・準備し、運営する。学修者はそれに乗っかるだけ。そのくせALが重要だからと特定の授業・講義のときだけ「能動的になりましょう」と言われても、学修者は何をどこまで能動的にやって良いかも分からず、結局、教員が設けた枠内で能動的にやったふりだけして終わってしまうことになりかねない。結果、教員にしてみれば学修者を「アクティブにさせるには」などという自己矛盾した悩みを抱えるに至ってしまうことになるのである。
現在、多くの大学においてALの導入が叫ばれており、グループディスカッションやグループワークといった形式的なALは何ら珍しいものではなくなった。しかし、教員側が設けた枠内でアクティブにやったつもりになっているだけの学修者を育ててしまっている講義が意外に多いかもしれないということは、筆者自身の自省も含め、考えるべきことである。
では、どうすれば良いのか。筆者は主に3つの方法をとっている。これらがベストだというつもりは毛頭ないが、「アクティブにさせる」という自己矛盾を打破する取り組みとして一定の成果を挙げているので、ここに紹介したい。そこで例示するのは、現在筆者が担当する中京大学総合政策学部坂田隆文ゼミ[3]の活動である。
筆者が心がけていることの一つ目は、学修者に「やってもらって当たり前」という感覚をもたせないようにすることだ。少々過激かもしれないが、「君たち相手にろくな指導をしなかったとしても私の給料が下がることなんてない。だから、しっかり指導してもらいたかったら、まずはそちらがやる気を出せ」ということすら口にしている。多くの学生はこの言葉に面食らうようだが、事実である。さすがに小学生相手にこのような発言をするわけにはいかないだろうが、筆者の経験上、高校生くらいであればこちらの発言意図を読み取れる生徒はいくらでも存在する。
その上で筆者が試みていることの第二は、学修者の能動性に徹底的に委ねることである。たとえば坂田ゼミでは、毎週のゼミで何をやるのかということについて、ゼミ生に決めさせている。何をやるのかをゼミ生が考えてこなかった時には自習。こちらが教えることが一週分減るのだと理解させている。もちろん、産学連携の類を行おうとすれば、企業とのやり取りは学生だけでは困難であろう。「ここまでは学生でもできる。ここからは教員でないとできない」という線引きを行い、学生でもできることをしなかった場合は、その先の学びの機会など与えないということを徹底しているのである。
第三は、環境づくりである。「やってもらって当たり前」というのも、そのような風潮が環境として存在しているのだと考えれば、逆に、「能動的に取り組んで当たり前」という環境さえつくることができれば、アクティブに「させる」必要などない。この環境づくりとして筆者が徹底していることは2つある。第一に、学修者の学びに限界を設けないことである。「頑張れば頑張った分だけ、次の学びの機会を与える」と常に伝え、それを実行している[4]。
環境づくりとして徹底している第二は、先輩・後輩の「縦のつながり」である。といっても、単に先輩と後輩が仲良くなるようにするというのではなく、能動的に活動を頑張っている先輩だけを後輩と関わらせることによって、後輩たちが「これくらいに能動的にやって当たり前なんだ」と思えるようにしている。もちろん、そのように行おうとすれば学生たちを(表面的な意味での)平等に扱うわけにはいかない。時には学生たちから「差別している」「えこ贔屓している」とさえ思われているかもしれない。幸いにも筆者は経験したことがないが、仮にその学生(や、その保護者)からそのように言われたならば、「意欲の低い先輩と関わるのは後輩にとって迷惑だ」と一蹴することであろう。
[4] この点に関して詳しくはhttps://univ-journal.jp/column/20167129/を参照されたい。
3.「アクティブにさせる」から「アクティブになる」へ
冒頭の「どうすれば学生(生徒)をアクティブにさせることができますか?」という質問の主語は「教員が」である。一方、我々教員が目指すべきことは「学修者が」アクティブになるということであるはずだ。そうであるなら、アクティブにさせることを考えるのではなく、学修者がアクティブに「なる」ために我々教員に何ができるのかを考えることが大切であろう。
ここでは筆者自身が取り組んでいる3つの試みを紹介したが、もちろん、他にも色々な方法があるであろう。たとえば、学生・生徒を積極的に褒めてみたり、能動的に参加することの意義を伝えるといったことは、筆者自身も暗中模索していることの一つである。
「させる」から「なる」への転換を行うためには、我々教員にもっと学修者の感覚・価値観・考え方を想像できる力が必要なのかもしれない。筆者自身、そのような想像力を養うべく、学生たちから学ばせてもらうばかりである。