大学ジャーナル連載記事「雑賀恵子の書評」から3つの書籍を紹介していきます。
紙の魚の棲むところ
雑賀恵子
青土社、2024年
紙の魚といえば古紙などにつくシミのことで、部屋に溢れかえった本についての話かしら、と想像されるかもしれません。でも、そういうわけではないのです。
わたしのいるこの世界が、もし一冊の書物だとしたら、と考えてみましょう。書物ですから、書かれていることには意味があるはずです。その書物の中で、<わたし>という存在も意味のあるものとして、そして役割のあるものとして置かれている。
たとえば、わたしを「さ」という文字とします。「さ」そのものは、形はあるけれども、そして誰かに読まれる時には[sa]という発音として声に出されるけれども、「さ」は「さ」であって、それ以上のなにものでもないというか、「さ」としか言いようがない。一方、あらゆる言葉を作る可能性をうちに秘めています。ところが、他に配置された文字との関係で「さくら」になったり、「さびしい」になったり、「さそう」になったりします。それぞれは前後のことばとの関係によって意味を持ちます。そうして、その「さ」は文章の中に閉じ込められます。
<わたし>は社会の中で、年齢や性別、生まれた場所や所属や地位など、さまざまな網に捉えられてその都度のレッテル=意味をつけられます。レッテルが意味だというのは、貼られたレッテルに相応しい振る舞いや在り方を要求されたり、自分は実はそうではないのだとしてもそういうふうに見られたりするからです。さらに、自分のいま生きている社会は、大きなひとつの物語みたいにすでに決まったものであって、自分ひとりでは変えられないもののように思い込まされたりもします。
だが、書物の中に巣食っていながら、書物が持つ意味とは無関係に書物を食い荒らすものがいる。小さいけれども、書物に閉じ込められた文字を意味から解放し、「さくら」が「さら」になるように別の可能性を開くこともある。それが紙魚です。厄介ごとをもたらす「巣食う」紙魚は、「救う」紙魚になるかもしれません。
そのように、社会のなかにありながら社会が押し付ける網にとらわれず、自由に泳ぎ、システムをずらしていく在り方を、多分ずっとわたしは探し求めてきた気がします。
この本は、主として『ユリイカ』という雑誌に書いたものをまとめました。雑誌の特集テーマに沿って、大江健三郎や宮沢賢治、石牟礼道子といった文学者、荒川弘(『鋼の錬金術師』ほか)や赤塚不二夫などの漫画家、『アンパンマン』のやなせたかし、落語家の立川談志、アニメ監督・細川守…そうした作家や作品をめぐって書いたものです。とはいえ、作家/作品論というよりも、どうもわたしは、作家や作品世界の中に、けったいで、不器用で頼りないけれども、システムを奇妙にずらし、綻ばせるものの姿、紙の魚の影を求めて、あちこちと寄り道しながら思考を飛ばしているようです。ですからこの本は、これらの作家や作品を知らなくても読めるエッセイ集です。
どこに身を置いたらいいのかおぼつかなくて、背骨のあたりがなんだか寒い。自分がなになのだかつかめなくて、心をかたちづくることができなくて、わけもなく苛立たしい。息苦しい。そういう人たちに、いや年齢ばかり重ねても未だわたし自身がそうなのですが、少しばかりの空気を送り込むことができたら、とひそかに願いながら書きました。ちょっと面白いと受け取ってくれたら、嬉しい。ほんとうにそう思っています。
謝罪論~謝るとは何をすることなのか~
古田徹也
柏書房、2023年
蹴ったボールがたまたま教室のガラスを割ってしまった。謝りなさい、と先生に叱られた。とりあえず「すみません」と言ったら、それですむと思っているのかとまた叱られた。すみませんがいけなかったのかしら。言い方が悪かったのかな。謝れと言われても、しようと思ってしたわけじゃない。単なる過失なのだし、先生に直接迷惑をかけたわけでもなし、なんで謝らなくてはならないのか納得できない。あれ?、謝るってなんだろう。
私たちは日常的に謝罪したりされたりして生活しているし、謝罪とはどういうものかはわかっている。だが、謝罪とは何かを言葉で説明するのは一筋縄ではいかないらしい。謝罪という言葉で括られても、行為や意図のあるなしや結果において軽いものから重いものまであり、あるいは誰が誰に対して謝罪するのか、いつ(まで)謝罪するのかの時間の幅についてもいろいろである。電車で揺れて足を踏んだというものから、国家規模のものまである。したがって謝罪をなんのためにするのかも一義的には言えない。
ただ謝罪は、人と人のあいだでなされるということは変わらない。謝罪は、人間関係の維持や修復、つまりは社会で生きることと深く関係しているのだ。本書は、わかりやすく事例を挙げてそこで起こっていることの具体的な中身を解きほぐし、謝罪とは何かに迫っていこうとする。
「すみません」という言葉は、呼びかけから重大な迷惑や損害を与えた場合まで使われる。その他の定型的な謝罪の言葉も同様だ。さまざまな具体的な場面の事例をめぐり、謝罪の言葉を細かく検討することによって、「軽い謝罪」から「重い謝罪」までのスペクトラムがあることが示され、謝罪の言葉の字義通りの意味と発語の背景にある意図や感情、謝罪によって目指すものなどが、主として言語哲学の手法で明らかにされていく。続いて「重い謝罪」を取り上げ、その典型的な役割とはなにかが分析される。さらに、社会学などでの謝罪についての先行研究を批判的に取り上げつつ、具体的な事例から謝罪の諸特徴を浮かび上がらせる。さらに、それらの特徴に当てはまらない例を挙げ、定義することのできない謝罪という領域の全体像に接近していく。
身近でわかりやすい事例が、丁寧に腑分けされ、いろいろな角度から光が当てられる。ああでもなくこうでもなく、こちらから、あちらからとぐるぐる掘り進めていく著者の思考についていくと、普段考えもせずに当たり前にしていたことがなるほどこういうことでもあってこうなのだと目を開かされるだろう。
本書でなされる探求の営みは、わたしたちの生活や社会について、ひいては自分自身について、より深い理解を獲得することにつながるはずだと著者はいう。そして、謝罪とは何をしようとしているのか、何が求められているのかを詳しく明確に捉えることは、自分自身を知り、自分の心情や思考を整理して、不適切な、あるいは不要な謝罪を回避することにつながるのだと。
そうだ、謝罪とは、人や組織体、国家の関係の中でできてしまった傷を明らかにして修復し、共にいきるために社会に埋め込まれた技術に違いない。
言語の本質~ことばはどう生まれ、進化したか~
今井むつみ 秋田喜美
中公新書、2023年
日常ぼうっとしているような時でも「お腹が空いたな」とか考えているものだし、「先週食べた焼肉は美味しかったな」とか思い出したりする。わたしたちは、自分と自分以外のものとの関係を言語によって繋いでいる。また、言語があることで、過ぎ去ったことや未来のこと、ここにないものや抽象的なものを考えることができる。思考するとは言語で世界を切り取って区切り、形づくっていくことだ。そして言語による思考は、その言語を理解する他者に伝達できる。だから、社会を作り、文化を作って、それを発展させることができる。言語は人間を人間たらしめるもののひとつだ。まだ言語を持たない赤ん坊は、自己と世界をどのように捉えているのか、わからない。子どもは、どうやって言語を身につけていくのだろうか。
当たり前のように使っている言語というものを改めて考えてみると(考えるということも言語があるからなのだが)実に不思議で面白い。言語とは、なんだろう。
本書は、オノマトペを手掛かりに言語とはなにかを探る。そして子供の言語習得の過程をオノマトペとアブダクション(仮説形成)推論に軸をおいて分析しながら言語の成り立ちや構造を考察し、さらには言語が体系に成長していくことを見通す。とりかかりの根底にあるのは、認知科学やAI研究での大きな課題である「記号接地問題」だ。言語体系にある記号(たとえば「りんご」という文字や音)がどのようにして現実世界の対象、意味と結び付けられるのかという問題である。ことばを使うために身体経験が必要かどうか、ということから、感覚イメージを写しとるオノマトペの「アイコン性」を取り上げ読み解いていく。オノマトペを言語の10種類の特性(言語学でスタンダードとして論じられる十大原則)と照らし合わせるとほぼ言語であると言えるのであるが、言語の特性からはみ出たところは、身体と抽象的な記号体系である言語との間を埋めるものと考えられる。
著者の今井むつみさんの専門は認知科学・言語心理学・発達心理学、もうひとりの秋田喜美さんは認知・心理言語学。認知科学と言語学が合わさって、オノマトペを手掛かりに言語を探求する手法は、新鮮で実におもしろい。著者たちは、オノマトペを分析しながら次々と湧いてくる問いと格闘し、きり捌いていく。そしてついには言語の発生までたどられ、人間がどのように進化していったのか、人間というものについてまで展開される。最後に、著者たちは、独自の言語の本質的特徴を7つに絞って提唱する。
日常何気なく使い、あたりまえのように受け取っている音の「感じ」がこれほどまで深く掘り進められるのは驚きでもある。本書を読みながら、読者もまた、いろいろな方向に知的興味が喚起されるだろう。わくわくするような冒険に誘うスリリングな書である。
雑賀恵子
文筆家。京都薬科大学を経て、京都大学文学部卒業、京都大学大学院農学研究科博士課程修了。大阪教育大学附属高等学校天王寺学舎出身。著書に『空腹について』(青土社)、『エコ・ロゴス 存在と食について』(人文書院)、『快楽の効用』(ちくま新書)がある。大学ジャーナル本誌では、2008年11月発行の79号から、ほぼ毎号、書評を寄稿。