人工知能(AI)、特に生成AIの登場からまだ2年余り、しかしその進化のスピードは速く、それがもたらす様々な社会課題――著作権問題、プライバシー保護などの倫理面での問題、教育の在り方等々—についての議論の、はるか頭上を飛び越えていく。しかもこの勢いは、情報端末の普及で、世界のすべての人々を巻きこもうとしています。その流れは、生みの親でもある物理学にも及んでいます。「学習物理学」という新たな概念を提唱し、同名の国のプロジェクトのグループ代表も務める京都大学理学部の橋本幸士先生の話を聞いてみましょう。
「学習物理学」、始めてます
AIが人間の職業を奪うという報道がよくなされていて、不安や恐れを感じている人は少なくないと思います。もちろん物理学研究者の世界にもAIの波が押し寄せています。しかしほとんどの物理学者は非常に楽観的です。というのは、物理学者はAIと一緒に物理学を発展させようとしているからです。
その一つの実践事例が「学習物理学」。AIに欠かせない機械学習の手法を物理学に融合させるという意味から私が作った新しい概念です。60人以上の研究者の加わる国の研究プロジェクト『学習物理学の創成』では、《機械学習と物理学の融合によって基礎物理学の変革を目指す》としています※1。
今や、ChatGPTのような大規模言語モデルの推論能力は非常に高くなっていて、物理学のデータを与えると、例えば私が4回生向けに開講している物理学講義の期末試験に完璧に答えることができます。それどころか、「教科書の知識を基に、こういう研究がしたいけれど…」と質問すると、物理学者の私が見ても十分正しい、そして面白い回答を返してきます。つまり、研究の進展をAIが助けてくれる時代にすでに突入している、私たちの取組の背景にはこのような認識があります。
※1 文部科学省科学研究費補助金学術変革領域研究(A)令和4年度~令和8年度
物理学と機械学習
物理学には現在、対象によって、素粒子物理学、原子核物理学、宇宙物理学、物性物理学などの分野があり、それぞれは独立して研究を行っています。しかし数学、数理体系の発展が、異なる分野を急接近させ、それぞれを発展させるということがあります。
近年でいえば、2016年のノーベル物理学賞は、トポロジー(位相幾何学)という数学概念を基にしたものに与えられました。2022年には量子情報に関連した研究が授賞しましたが、量子情報も新しい数学の分野です。新しい数学、数理体系が各分野を横串で貫いて、それぞれを発展させてきた。物理学はその長い歴史の中で、さまざまな自然の階層における課題を、数学、数理科学との連携により解決してきたとも言えます。この意味からも、2024年のノーベル物理学賞が、機械学習の基礎を樹立したジェフリー・ヒントン※2らに与えられたのは象徴的です。
このような経緯から、私たちはAIの基盤をなす数理体系である機械学習にも、同じ役割が期待できるのではないかと考えるのです。
機械学習にはいくつか種類があります。人間が答えのデータを与え学習させる「教師あり学習」、人間から答えを与えられなくても、データを自動で分類したり、データを基にしてモデルを作ったり、法則を自分で発見したりできるようにする「教師なし学習」、さらにそこから、試行錯誤で最適な行動を学ぶ「強化学習」等※3で、最後の例には有名なアルファ碁があります。
いずれも膨大なデータからコンピュータがパターンやルールを学習し、予測や判断を行う能力を獲得するというものです。これはまさに、入力に対してある出力を与えるという数学の概念、関数そのものですから、機械学習は、数理最適化や統計学を基盤としてデータに基づいた意思決定を自動化する技術であるとも言えます。
※2 Geoffrey Everest Hinton:1947年~トロント大学名誉教授
※3 例えば教師あり学習では、「A」「B」2種類の手書き文字について、様々なバリエーションを多数用意して学習させ、関数を最適化すると、それに基づいて新しく入力された手描き文字がAかBかを判断してくれます。車の自動運転に必要な信号の判別などに使われているのはこのような技術です。
AIは物理学に変革をもたらす
一方物理学は、まず実験や観測を行い、非常に複雑で大量のデータを収集することからスタートします。次に物理学者は、収集したデータの背後にあるパターンや法則を見つけようと、モデルを立てます。モデルというのは高校の物理で習うF=maのような数式、つまり関数の形をとります。ただ当初は係数など不確定な要素も残りますから、モデルがデータによりよく当てはまるように最適化と呼ばれる作業を繰り返します。そして最終的にF=maという法則が導かれる。
法則が一旦決まれば、それを使ってまだ未解明の現象を予測する。その予測はまた新しいデータとなりますから、それらを踏まえて、また新たな法則を探すということになります。
物理に限らず、科学は、このようにぐるぐると回りつつ、新しい法則を発見してきました。
しかし、AIを使えばこの過程を短縮できる可能性が十分あります。中でも逆問題の初期値問題やシステム決定問題には、データからその背後の関数を最適化して見つけるというAIにはうってつけだと考えられます。
初期値決定問題とは、y=F(x)の関数Fとyがわかっていてxを求める問題です。x、yがそれぞれ1個の場合は、難易度は大学入試問題程度ですが、xやyの数が増えると、一般的に解くのが難しくなります。システム決定問題はさらに難しく、関数自体がわからず、xにある値を入れたらこのようなyが出るということだけがわかっている問題。自然界ではある刺激にたいしてどれぐらいの電流が流れたかというデータだけがあってFを見つけるという問題です。これが解ければ、物理法則を発見できます。実際、逆問題がAIによって解かれるという例はいくつも報告されています。その内の一つは、ニュートンの重力の法則が、惑星の運動データを入れるだけで再発見できたという論文で、2022年に書かれています。
このようにAIが物理に限らず科学のさまざまな段階に入り込めるというのは想像に難くありません。研究のどの段階で、どのようなAIを使うのか。これを現在、科学者はさまざまに模索しています。AIをうまく使うことができれば、研究は加速し、これまで人間の知恵だけでは到達できなかったような考え、新たな法則を生み出すことも不可能ではないと思っています。
現時点ではまだ、AIにデータを与え、既知の物理法則を再現する、そこから予言能力の高いAIを育てようという段階ですが、もしこれが軌道に乗るような分野が見つかれば、AIが先行して法則を見つけてくれる可能性は非常に高いと思っています。
2016年から19年頃には、天体観測で撮られたたくさんの星の映像の中から、研究者が興味ある現象を抜き出してくれるというAI。あるいは、それまで手で数えていた加速器の衝突実験で生成されたたくさんの素粒子を判別し、求める現象を瞬時に取り出してくれるAIなど、物理学の様々な分野でAIが研究を加速する事例が多数報告されました。今後も、AI自身が全体の問題を解いてくれなくても、その得意な部分を一部活用して全体の物理学の研究が進んでいくと予想しています。
AI自体も物理学の対象です
AIは物理学者にとっては研究の対象ともなる「自然現象」です。刺激的な新しい現象をたくさん提供してくれるため、物理学者その背後のメカニズムの解明に挑戦しています。例えば、ChatGPTのようなAIによる発信を自然現象だと捉えると、物理学者としては、その仕組みを説明できる法則があるはずだと考えます。そして、機械学習に基づくAIを理解するために、物理学の考え方は有用だと考えているのです。その端緒はたくさん見えています。
今後このような研究がうまく進展すれば、最終的にはAIの法則と物理学の法則が統合された何らかの統一理論ができるかもしれません。これは決して突飛な発想ではありません。物理学では、過去に独立に考えられてきた陽子・中性子の理論と重力の理論が、現在では一つの理論によって理解されています。それと同じようなことがAIと物理学の間にも起こるのではないか。これがAIを研究している物理学者の姿勢の一つです。
学習物理は物質と心(精神)を繋ぐ?
AIの登場によって今、私たちの前にはこれまで経験したことのないような世界が広がりつつあり、多くの人はそれに怯えているかもしれません。しかし産業革命を思い出してみましょう。当時、革命の原因がわからなかった人々は非常に怯えたと思います。一方、物理学から見れば、原因となった法則が分かりますから、それを統御する方法も考えられる。これが20世紀に、私たちが学んだことだと思います。
この経験から、今のAIに対しても、その背後に物理学があると知れば――もちろん物理学だけではありませんが、私たちは幾分安心できる、少なくともどういう方向に進むかということを考えることができるのではないでしょうか。
最近は、自ら発信するAIには心(精神)が宿るようにも見えるとよく言われます。物質から作った加工物でも、もしそれが生命活動に似た現象を起こすのなら、その中に脳と同等な現象が生まれ精神を宿すのではないかと。
もちろん物理学が扱うのは物質です。その物質と精神とはこれまで、お互いを隔てる距離は非常に遠く、つなげることはできないと考えられてきました。扱う学問分野も、物理学、工学、生物学、医学から心理学、哲学へとどんどん離れていきます。しかし私の研究室の開設者である湯川秀樹博士は、「物質と精神は表と裏の関係にあり二つをつなげるのは哲学である」「ただ両者が出会うには左と右からの長い二つの道を歩かないといけないが」という意味のことを述べています。(「物質と精神」1943年中央公論)。
21世紀、AIはここに新しい道を開きつつあると言えないでしょうか。それが生み出す《情報》を媒介として、です。物質から情報を作るのは工学です。半導体からパソコンができ、私たちは情報を物質から作り出せるようになりました。そして今、この情報が言葉を発し文章を綴り始めています。それがAIです。物質と精神とを隔てる非常に長い道に、情報という近道ができたとは言えないでしょうか。
哲学、そして物理学について、AIと一緒に研究していくことで、私たちは未来を不確実なものからわかるものにしていけるのではないかと個人的には考えています。
京都大学大学院理学研究科(物理学・宇宙物理学専攻 物理学第二分野 素粒子論研究室)
橋本 幸士教授
2000年3月理学博士(京都大学)、2000年4月学振特別研究員(PD)(京都大学基礎物理学研究所)、2000年9月学振特別研究員(PD)(カリフォルニア大学サンタバーバラ校理論物理学研究所)、2001年10月東京大学駒場素粒子論研究室助教、2007年10月理化学研究所川合理論物理学研究室研究員(定年制)、2009年4月同専任研究員(定年制)、2010年4月同准主任研究員(定年制)(橋本数理物理学研究室を主宰)、2012年10月大阪大学教授、2021年4月から現職。専門は量子重力、弦理論、機械学習、理論物理学。東大寺学園高等学校出身。