では、人数がある程度絞られてきたならどうであろう。筆者の場合は、担当するゼミがそれにあたる[1]。筆者が担当するゼミは学内でも相当厳しいとの定評があるそうなのだが、ここでも、筆者のスタンスは下限は指導教員である筆者が決め、上限は、本人の意欲次第というかたちをとっている。○曜□限にゼミがあり、そこに出席して議論に参加するだけという学生がいても良い。筆者が行うのは、そこでの指導に加えて、更に学ぶ意欲のある学生のために「頑張り甲斐のある場」を用意するということだけである。この「場」には、今のところ際限がない。
学生が「これ以上は無理」というだけの教育材料を常に用意しておき、やりたい学生にはどんどん新しいことをやってもらい、そうでない学生は自分の能力やペースに応じたかたちで取捨選択をさせている。この取捨選択こそが、筆者が大学教育におけるALにおいてこだわりをもっていることの一つである。「何かをやるもやらないも自分の責任」というのは、筆者が常々学生に伝えているメッセージの一つであり、何かの活動を本人がやると決めれば、それに付随する全ての責任を本人が負うことにしている。
たとえば、今春ゼミ生が参加し受賞を果たした「ドコモ 近未来社会学生コンテスト」の場合もそうだった。これに参加するといった学生がグループの集まりを何らかの理由で休むとすれば、それも本人の責任である。その理由が体調不良だろうがアルバイトだろうが家族の病気だろうが、筆者は一切関与しない。グループ内でその理由が認められれば(正確には、認めてもらうための努力が実を結べば)それで良いが、そうでない場合は、グループから外され、その活動を続けられないというだけだ。