ふと考えてみたのですが、専門とは何でしょうか・・・。 特定の学術分野の知識に詳しいことを「専門」としてしまうと、我々人間はAIにかないません。もはや詳しい知識や技能の所有が「専門」でなくなった今、「専門」について改めて考えてみると、専門の「もん」は「門」であることにふと気づきます。慌てて古今東西の偉人たちの学問についての言を集めると・・・。
「一般に規則としなければならないことであるが、知識のあらゆる区画は、切断し分離するものとしてよりも、むしろ線と脈絡として認められるべきであって、知識の連続性と全体性とは保存されなければならない。というのは、そうでないために、個々の学問(専門)は、共通の源から養分を与えられ扶養されず、そのために実を結ばず、軽薄で、まちがいだらけのものになってしまったからである。」
フランシス・ベーコン(1605)
「つまり、現に実在しているものすべてが種々様々な特性からいかに構成されているかを考察することです。個別科学や個々の研究方法によってはそれらの特性のほんのわずかな部分しか明らかになりません。それらの全体が考慮にいれられると、われわれは実在するものを抽象としてではなく、《自然》の一事実として真に知ることができるのです。」
J・S・ミル(1865)
「すべての専門は唯一の真理に奉仕するものであって全体との関連を失えば消滅してしまう。」
パウル・ティリッヒ(1923)
「ところでそもそもこの場合、「学問」とは何を意味するのだろうか。それは以下に見るように、「諸命題の体系的総体」である。(中略) なぜなら諸命題を結合することによって現実の一構成要素がその完全性において思考されるか、それともこの諸命題の結合によって人間活動の一分野を秩序付けられうるかのいずれかだからである。」
ディルタイ(1923)
「専門家たるもの、突き詰めればおのずと基礎たる哲学に接触するのは当然とし、自分の専門の意味をその外に立つことによってよりよく反省せんがため、あるいは自分の保持する原理の包括力および影響力を種々の分野において試さんがため、他分野と接触することを余儀なくされるもの。」
三木清(1937)
「根源的知識欲とは、まず初めにあるものであり、やがて全体へと赴くものです。それは常に特殊的なものにおいてのみ、つまり専門性の手仕事的労働の中で具体化されるものであるとしても、その専門性はそれが全体の部分であることによって初めて自らの精神的生命を得ることになるのです。」
ヤスパース(1945)
たしかにそうなっている!
今を生きる我々は、専門をついつい「領域」として捉えがちですが、それは大きな間違い。閉じた区域ではなく、むしろ全体(普遍)へと通じる入り口だったのです。果たして、今を生きる我々の専門観を本来のものに置き換えることができたなら、何がどう変わるでしょうか。文理の壁とて、我が国においてもほんの19世紀までしか遡れないのですから、これは十分可能な考察です。
まずなんといっても、孤立的に各専門領域がある(と思い込んでいる)からこそ生まれた越境や学際、異分野連携という言葉は瞬く間に消滅することでしょう。自分(の専門)が何を当たり前とし、それは実は他専門の探求の結果なのだとしたら、いったい何がどういうふうに他の専門の道とからみあっているのか。互いを互いに根拠付け、ときに離れ、ときに共同し、歴史的で複層的な関係性の中に我が問いが存在している…。道としての専門は、他と交差することで探求の大山における自分の位置を自覚的に把握します。なぜなら、山頂を目指すのはなにか確固たる答え(真理)を希求してのことではなく、自分(たち)が歩いてきた道を俯瞰することこそが目的なのですから。局所から入り大局を感受することでこそ、自分でありながら自分ではない全体としての物語を語れ、物語として生きられるようになる。研究(個別科学)が学問(全体)になるのはこの地点においてであり、私は学問論という研究を通じ、大学が学問を取り戻す、ないしは学問がその本来あるべき席に戻ることを目指します。(続く)
京都大学 学際融合教育研究推進センター
准教授 宮野 公樹先生
1973年石川県生まれ。2010~14年に文部科学省研究振興局学術調査官も兼任。
2011~2014年総長学事補佐。専門は学問論、大学論、政策科学。南部陽一郎研究奨励賞、日本金属学会論文賞他。著書に「研究を深める5つの問い」(講談社)など。