間野 博行、佐々木 博己
スキルス胃がんは進行が早く、発見されたときには手遅れのことが多い。それ故、研究用の検体を得るのが難しく、治療法の開発も遅れていた。今回、患者の腹水に含まれる細胞を用いることで、スキルス胃がんの網羅的ゲノム解析が初めて行われ、治療標的を見つけることに成功した。研究を行った国立がん研究センター研究所の間野博行所長と佐々木博己研究員に話を聞いた。
―― スキルス胃がんとは、どのようながんですか?
間野氏: スキルス胃がんは、胃がん全体の5〜10%を占めている難治性のがんです。粘膜下に広がりやすく、診断されたときには、既に胃壁を貫いて腹膜に転移(腹膜播種)していて外科手術を行えないことが多いという、大変厳しいがんです。
これまでスキルス胃がんについては、ゲノム解析や発がん機構の研究があまり進んでいませんでした。欧米では、胃がんの発症率が日本ほど高くありません。そのため、欧米を中心とするがんゲノムプロジェクトでは、スキルス胃がんがそれほど注目を浴びることはなく、厳密な解析が行われてこなかったのです。
腹水から得た細胞を使う
―― 今回は、腹水のがん細胞を研究に用いたのですね。
間野氏: はい。体内で胃や腸などの内臓を包んでいる膜が腹膜です。その腹膜にがん細胞が転移して腹膜腔(腹膜に囲まれた空間)に体液が溜まります。これを腹水といいます。
私たちは、スキルス胃がんの患者さんの腹水を研究に使用させていただくことができました。腹水の中には、血液細胞をはじめとする種々の細胞に混じって、胃壁から侵入したがん細胞が含まれています。そのがん細胞のゲノム解析を行ったのです1。
―― 腹水のがん細胞を使おうと考えたきっかけは?
間野氏: 佐々木先生が長年、腹水のがん細胞を収集されていました。私がこの研究所の所長に就任した2017年、佐々木先生にお目にかかり、腹水中のがん細胞を収集されていることを知ったのです。これは、スキルス胃がんの解析が行える貴重な機会になるに違いないと思い、共同研究を申し込みました。
佐々木氏: 私の研究について説明したとき、間野先生の目がキラッと光ったのを今でも覚えています(笑)。
―― いつごろから収集されているのですか?
佐々木氏: 2010年ごろからです。ユニークな試料を集めて研究に役立てようと考え、収集を始めました。まず、各患者さんの同意を得て、腹水の細胞中から、がん細胞だけを取り出します。これが純化細胞です。さらに私たちは、株化細胞の樹立も試みました。腹水中の全細胞ペレットを通常の培地で培養し、株化するのです。株化された細胞(細胞株)は、無限に継代培養できるので便利です。ただし、株化の成功率は約30%なので、細胞株に加えて、凍結保存しておいた純化細胞をも含めて、今回の解析を行いました。株化細胞の特徴が純化細胞の特徴を反映していることは、両者のデータを比較することで確認できます。
このようにして、全部で98人の患者さんのがん細胞を利用させてもらうことができました。
ゲノム解析により新たな発見が
―― ゲノム解析からどのようなことが分かりましたか?
間野氏: 98人の患者さんのがん細胞について、次世代シーケンサーを用いて全ゲノム配列を解読しました。そして、得られたがんゲノムにどのような後天的変異(体細胞変異)が含まれているかなどを調べました。
その結果、驚いたことに、スキルス胃がんのゲノムは高度な「不安定性」を示したのです。つまり、遺伝子の高度増幅が異常に多いゲノムだということです。これは予想を覆す発見でした。スキルス胃がんは、びまん性胃がんの一部と分類されていて、びまん性胃がんの特徴は、ゲノムの「安定性」だったからです。
これまでのがんゲノムプロジェクトは、手術検体を解析対象としていますが、スキルス胃がんは手術の適応が少ないので、検体が手に入らず、対象から外れてしまいがちだったのではないかと想像しています。また、スキルス胃がんでは胃壁の線維化が進んでおり、たとえ検体が得られても、その中のがん細胞の割合が低かったと予想されます。結果的に、これまでのがんゲノムプロジェクトでは、スキルス胃がんの特徴を正確に把握できていなかったのだと分かりました。
―― 具体的にはどのような遺伝子変異がありましたか?
間野氏: 細胞増殖の制御に関与する「受容体チロシンキナーゼ–RAS/MAPK経路」の遺伝子群に、特に高度な遺伝子増幅が数多く見つかりました。また、私が以前発見した2肺がんの原因であるEML4-ALK遺伝子融合もありました。遺伝子融合とは、2つの遺伝子が連結してしまう変異です。
遺伝子増幅や遺伝子融合といった変異が多いことは、ゲノム不安定性の特徴でもあり、転移しやすいというスキルス胃がんの特徴として、うなずけるものです。
また非常に喜ばしかったのは、ここで発見された変異のうちかなり多くのものに対して、別のがんの分子標的薬が既に存在することです。分子標的薬は、変異分子を標的にするので、がんの種類が違っても、薬の効果は有効なのです。今回、遺伝子増幅や遺伝子融合が見つかった遺伝子は、スキルス胃がん全症例のうちの50%に及び、その半数には分子標的薬が既に存在していました。
私たちは実際に、いくつかの分子標的薬とマウス個体を使って実験を行い、薬の有効性を確認しました。細胞や個体を使った実験は、佐々木研究室にお願いしました。
―― トランスクリプトーム解析なども行いましたね。
間野氏: トランスクリプトーム解析、エンハンサー解析などを多層的に行い、次のようなことを明らかにしました。
まず、スキルス胃がん細胞は、上皮間葉転換(EMT)に関連する遺伝子群の発現の高低によって、2つのグループに分かれることです。EMTとは、がんが転移するときに、本来の上皮細胞としての性質(細胞間接着能など)を失って、間葉系細胞の性質(浸潤性、迷走能など)を獲得することを指します。
EMT遺伝子群の発現が高度のグループでは、特徴的なスーパーエンハンサー領域(遺伝子発現を制御するエンハンサーが密集している場所)が見つかりました。今後、このスーパーエンハンサーを研究することで、治療薬開発や発がんのメカニズムの解明などに役立つ可能性があります。
さらに、EMT遺伝子群の発現が上昇した結果、TEADなどの転写因子が活性化されることが分かりました。TEADは、器官のサイズ調整や発がんに関与することが知られていますが、私たちはTEAD阻害剤がこれらの胃がんに有効なことを確認しました。
がんゲノム医療への応用が広がる
―― 既存の分子標的薬や阻害剤の中に有効なものがあるということで、がんゲノム医療への応用が期待されます。
間野氏: 先ほども触れたように、我々の解析結果から、既存の分子標的薬が有効な遺伝子変異が、スキルス胃がんのうちの4分の1に上ることが分かりました。今後、これらの既存薬がスキルス胃がんでも使用できるように、1年以内には臨床試験に進みたいと思っています。また、TEADの阻害剤については、これまでに臨床試験で承認を受けたことがないので、これから研究開発を進めていきたいと考えています。
日本ではがんゲノム医療が2019年に始まりました。患者さんのがんゲノムにどのような変異があるかを「遺伝子パネル検査」という検査法で調べ、その人に最適の分子標的薬を使うという医療です。使える薬がまだ少ないので、今回のような解析が多くの研究者によって活発に行われ、その成果の積み重ねによって、治療可能な患者さんが増えていくことを期待しています。
―― 今回の研究のゲノム情報は公開されています。その点からも研究の発展が期待されます。
佐々木氏: はい。情報は公開されており、データの登録者(筆頭著者の田中庸介 国立がん研究センター研究所研究員)と相談すれば、誰でも利用できるようになっています。今回の研究は、研究リソースとしても非常に価値の高いものだと考えています。細胞株とゲノム情報および臨床情報がセットになって紐付けられているからです。細胞株については、それを研究開発に用いることもでき、このようなリソースを創薬分野ではバイオアセット(生物財産)と呼んでいます。今後、スキルス胃がんの研究がさらに発展していくのではないでしょうか。
―― 腹水のがん細胞や細胞株の収集を可能にした秘訣は?
佐々木氏: 興味と熱意でしょうかね。私は国立がん研究センターに長く勤めているので、がん細胞(株)収集という基盤整備の研究を、地道に行うことが可能だったこともあるでしょう。これまでに私の研究室で研修していった多くの若手医師が、今では全国の中核病院に勤務しています。彼らの紹介を通して患者さんの腹水が得られ、研究に生かされているのです。
がん細胞の収集は、ただやみくもに集めるのではなく、研究で重要なのは何か、と考えて集めることが大切です。また、難治性のがんである膵がんや日本で急増している卵巣がんでも腹水を生じやすいので、私はこれらのがんの腹水も収集し、純化がん細胞とがん細胞株をストックしています。これらのゲノム解析はこれからです。
―― 今回の研究を振り返ってどのような感想をお持ちですか。
佐々木氏: 私は、間野先生たちと共同研究できたことが、本当に幸運だと思っています。それ以前もゲノム解析については部分的には行ってきてはおりました。しかし、今回のように網羅的な多層オミクス解析を行うことはできず、従って研究成果も限られたものでしかなかったのです。
ゲノム解析作業などについては外注することもできますが、その後のデータ解析までを、何度かの再解析も含めて、結果が十分に出るまでやり切るには、やはりこういった共同研究でなければ無理だったと思います。
間野氏: 外注のゲノムデータだけで、こういった研究にまとめ上げられるかというと、確かにそれは難しいでしょうね。私たちも、最初はうまくいかないことだらけでした。それが、いろいろ試していくうちに、新しい発見につながって、さらにまた次の新たな発見が導き出されていきました。
阻害剤の有効性などは、1つ1つ実験で試すしかありませんでしたが、最終的には臨床に直結する結果が得られ、よかったです。私はがんの基礎研究にずっと携わってきましたが、その根幹には患者さんを治したいという気持ちが常に強くありました。ですから、今回の成果は本当にうれしいです。
―― ありがとうございました。
聞き手は藤川良子(サイエンスライター)。
Author Profile
間野 博行(まの・ひろゆき)
国立がん研究センター研究所 所長、細胞情報学分野長
1984年東京大学医学部卒。内科研修医を経て、1992年博士(医学)取得。自治医科大学医学部教授、東京大学大学院医学系研究科教授を経て、2016年より現職。
佐々木 博己(ささき・ひろき)
国立がん研究センター研究所 基盤的臨床開発研究コアセンター(FIOC)創薬標的・シーズ探索部門 研究員
1990年東京大学大学院農学系研究科修了(農学博士)。1991年に国立がんセンター研究所(当時)に研究員として入所後、室長、ユニット長を経て、2013年FIOC部門長。2020年に定年退職し、現職。
参考文献
- Tanaka, Y. et al. Nature Cancer 2, 962–977 (2021).
- 2 Soda, M. et al. Nature 448, 561–566 (2007).
※この記事は「Nature ダイジェスト」から転載しています。
転載元:Natureダイジェスト2022年1号
「スキルス胃がんの全ゲノム解析で見えた治療標的」
Nature ダイジェスト Vol. 19 No. 1 | doi : 10.1038/ndigest.2022.220130