1.はじめに
中央教育審議会「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等教育、大学教育、大学入試選抜の一体改革について」(2014年12月22日)においてアクティブラーニング(AL)型授業を推進することが答申されて以降、高校・大学やそれらを取り巻く場において、ALとはいかなる授業・講義なのかということや、それをいかに行えば良いのかという議論が起こり始めている。
実際、ALの定義やその社会的意義・歴史的背景について書かれた書籍(たとえば、溝上慎一[2014]『アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換』東信堂)や、ALを単なる表層的な方法論ととらえるのではなく、その神髄にある深い学びに焦点を当てた書籍(たとえば、松下佳代編著[2015]『ディープ・アクティブラーニング』勁草書房)が出版されるなど、ALに関する理論的・実践的蓄積は進んでいる。また、筆者自身も先日「東海地区高等学校進路指導連絡協議会」なる場で「アクティブラーニングを活かしたキャリア教育」と題した講演を行ったが、ALに関するこのような講演、啓蒙の場もますます増えつつある。 このような状況を鑑み、前回寄稿した「アクティブラーニングによる課題解決型産学連携講義の意義と課題」では、ALにおける一形態としての課題解決型(PBL)講義、その中でも企業と連携した産学連携講義を題材に、ALの問題点について触れた。本稿ではその議論を踏まえ、多くの大学でALがうまくいっていないとすればそれが何故なのかということについて議論したい。
2.アクティブラーニングにおける問題点
筆者が専門とするマーケティング論では、かねてよりALとみなせる教授方法がとられることがあった。それはケースディスカッションと言われる。ある企業、商品あるいは店舗などを題材とした概ね10~20頁ほどの事例を読み、それに基づいてグループで議論を行うというものである。このケースディスカッションは1920年代のハーバード・ロー・スクールで始まったものを始祖とし、後にビジネススクールにおける一般的な教授法となった。文部科学省のALの定義(※1)でも分かる通り、ALという言葉こそなかったものの、このケースディスカッションという手法は紛れもなくALの一種であるということができる。
さて、では、我々教員は題材となる事例を提供し、設問を用意すればそれで十分にALができているといえるだろうか。答えはもちろん否である。質の低いディスカッションとなると、
学生A:「私はX社が新商品開発に力を注いだ方が良いと思います」
学生B:「私は広告に予算をつぎ込むべきかと思います」
学生C:「私も広告の方が大切かと」
学生A・B・C:「では、広告に力を注ぐという結論にしますか」
といった議論のように、議論を掘り下げることも論理的思考を凝らすこともなく議論が終わってしまうことすらある。しかし、形式だけをみたなら、これも立派なALといえてしまう。
「アクティブラーニングによる課題解決型産学連携講義の意義と課題」で筆者は、このように形式が重視されたALが行われることに警鐘を鳴らし、ALで求められる一つの解は受講生にいかに課題に直面させるかだということを指摘した。それがないとするならば、非常に極論をいうと、全ての講義を自習とし、「みなさん、自分がやりたいことをやっておいて下さい」というだけでALといえてしまうことすらある。事実、同じ大学教員として非常に恥ずべきことと感じているが、コンピュータ室に学生を集め、「情報探索」の名目で好きにインターネットを閲覧させるだけの講義を行っている教員もいると聞いたこともある。この講義で受講生は、you tubeやFacebookを90分見ているだけで単位を取得できる「楽勝講義」と喜んでいるという。受講生の自主性に委ねてしまうだけなら、これも立派なALといえてしまうかもしれない。
※1:「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。…中略…。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である」(新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)(平成24年8月28日)用語集)