私は2001年には中教審委員となり、第1期から第5期まで教育課程部会長や教員養成部会長、教育制度分科会長や初等中等教育分科会長、そして全体の副会長もやらせていただきました。実は現在も初等中等教育分科会の委員として籍だけは残っています。この間、2007年に、文部科学省によって全国学力・学習状況調査が実施されることになり、そのために設けられた専門家会議の座長として、制度設計から関係しました。私はそこで国語と算数・数学のB問題として記述式を入れたわけです。それが今回、大学入学希望者学力評価テスト(仮称)に記述式を入れること、またその実現可能性の根拠とされているのは実に不思議な気持ちです。大学受験のための共通テストで記述式を導入するということで言えば、まさに失われた40年だったというところでしょうか。

※5:大学教員の教育能力を高めるための実践的方法、またそれを行うための組織的な取り組み。
ファカルティ=Facultyは大学の学部などの教員組織や教員集団、ディベロプメント=developmentは能力開発の意。

 

周囲の雑音に迷うことなく、個の確立を目指せ

 私は教育の目的は「真に自立した自己表現的な人間(self made person)」を育てることだと考えています。
日本は今、ようやく教育方法や教育評価の側面でもアメリカやヨーロッパの良い点を採り入れようとしています。PISA型学力を重視するのも、その意味で大事なことです。大学では20年遅れて「教育の質保証」が叫ばれるようになりましたし、アクティブラーニングを積極的に採り入れようということにもなっています。グローバル化の進展の中で、この方向性は基本的に間違っていないし必要なことです。しかし日本の教育の良い点も見失ってほしくない。

 お釈迦様の残した言葉に「自己と主(あるじ)するなかれ、自己の主(あるじ)となれ」というものがあります。また日本中世の偉大な禅僧、道元※6は「只管打坐」(ただひたすら座禅に励むこと)、とりわけ「只管」ということを強調しました。私は、「自分自身が自己の主人公になること」そして「何事もただひたすら行うこと」こそが、日本人にとってはself made personになるための道ではないかと考えています。

 1980年代、日本はバブルに浮かれ、それ以降しばらく教育界ではゆとり教育が謳歌されました。マスコミもそれを煽った。結果はどうでしょう。アメリカでも、1970年代のオープン教育で育った人材が、日本の「ゆとり世代」以上の批判を受けています。表面の新奇さに浮かれ、安きに流れては元も子もありません。学力とはまさに多面的なものですからPISA型学力だけを求めるわけにいきません。アクティブラーニングだけでもダメです。今の学習指導要領に示す修得・活用・探求のどれ一つを欠いても本当に学んだことにはならないのです。

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大学ジャーナルオンライン編集部

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