このような大げさなタイトルのもとに書くことは著者には荷が重いことは承知の上ですが(例えば、佐伯啓思先生の『自由とは何か』(2004年講談社現代新書)という良書があります)、昨今の騒動をみるにつけ、力不足を認めつつも考えておかなければならないことと思って、自分なりに記します。

 言うまでもなく、自分以外の誰かやどこかの組織に、「あなたは自由です」と認められてようやく獲得するような自由は、ほんとうの「自由」ではありません。それは「権利」に近いものでしょう。そのような許可や認定を受けるはるか前から、我々は「自由」です。社会や制度はつまるところ人間が作った(作ってしまった)人工物であり、そういう人工物がどうのこうのという以前に、我々は自由にものを考え自由に行動できる存在という意味です。

 「え? 全然、自由じゃないですよ。会社に縛られ、家庭に縛られ、全くやりたいようにやれていません」

 なんて思われた方もいるでしょうが、いつ何時でもこの瞬間からでも、それらを手放し何処にだって旅に出かけることができる、つまりそれを「する・しない」のどちらかを選択をしているのはあなた自身であって、やっぱりどう考えても我々は本来的に「自由」です。したがって、極論するなら・・・などという修飾語をつけるまでもなく、すべては自らが選択した結果であり、この世のすべてにおいて誰かや何かのせいにできることなど何一つとしてない、というのは、あまりにも当たり前の事実です。これは小賢しい責任論などではなく、全宇宙の認識についての話であることに注意してください。そう、ほんとうの「自由」とは「孤独」という意味に近いのです。

 昨今、責任論の類はよく見かけますが、このような認識論(言うなら、この世や人生への構え)はとんと見かけない。それではいつまでたっても枝葉、末節の域にとどまったままだろう、という苛立ちもまたこのような文章を書くに至ったきっかけですが、「自由=やりたい放題」と考えるのは、自由の対義語を「束縛」や「責任」とする考え方から生じたものです。繰り返しになりますが、それは人工物の域であり枝葉の域です。その束縛とは何か、責任とは何かと考えることこそ、我々の存在の土台の部分について意識を向けることであり-それがすなわち幹の域ですー、我々が持って生まれた本来の性質に気づくことでしょう。

 「自由」を「自立」という意味合いで用いたのは福沢諭吉です。彼にとって自立とは、文字通り「自分で立つ」ということであり、自分で食って自分で生きることですから、自由とはやはり、どこか孤独な雰囲気をまとったものになるのではないでしょうか。

 あぁ、もし今を生きる人々がこのほんとうの「自由」を認識したなら・・・もっとこの世はさっぱりするのだろうなと思うのです。自分の不都合や不平不満を、誰かやどこかの組織を安易に悪者にした正義論にすり替え、声高に唱えたりしなくなるでしょう。自分が弱者であることを過剰にアピールし、あたかもそのことで自分が正しい側にいるのだと考えたりもしなくなるでしょう。あるいは過剰に熱くなり、なぜみな声をあげないんだ!などと闘志を要請したりすることも。全ては自分の選択であって誰のせいにもできないのですから。

 かといって、それは孤独で寂しく、極度に諦めた世界像を抱くことなどでもなく、良いことも悪いことも含めたこの世、この社会に対する覚悟にも似た受諾的態度でもって生きるということなのでしょう。「あぁ、あいつも変なことをしているが、それは自分だってあの立場だったらそうなるかもしれん・・・どうしようもないことをしているとは思うが無碍に責めることもできやしない、なぜなら自分だってそれほど正しくはないのだから。そして、歴史をみればそういうことだってあっただろうし、そういう経緯を経てこの今というものがあるのだから・・・」と。
 ほんとうの「自由」の理解は、きっと味わい深い世にいたる第一歩になるのではないでしょうか。(続く)

 

京都大学
学際融合教育研究推進センター
准教授 宮野 公樹先生
1973年石川県生まれ。2010 ~14年に文部科学省研究振興局学術調査官も兼任。
2011~2014年総長学事補佐。専門は学問論、大学論、政策科学。南部陽一郎研究奨励賞、日本金属学会論文賞他。著書に「研究を深める5つの問い」講談社など。

 

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大学ジャーナルオンライン編集部

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