国際社会のリテラシー

 「授業は全て英語で、グローバル人材を育成します」。よくある大学の宣伝文句であるが、これには強い違和感を禁じ得ない。上記のような場では、英語が必然であるという極めて明確な目的があり、日本人学生はその目標のために必死で言語を学ぶ。

 しかし、世界と意思疎通できないのは、言語以上にもっと本質的な課題があることに気づく。それは、リテラシー(共通理解のツール)と、社会情勢に根差す課題意識のズレである。人種や民族、宗教の違いや格差などにより、国内においてすら暗黙知が通じない国が多勢を占める環境において、全員が共通理解を得るには、データ(統計など)や人類の共有知識の引用は必須であり、データを読み解く力がなければ判断を誤ることとなる。Figures don’t lie, but liars do figure. (Mark Twain)(数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う)共通認識が曖昧な場ではデータを示す、即ちサイエンスに基づくエビデンスの提示と論理的な議論展開をしない限り、みんなが頷くことはない。

 とすれば、グローバルな場で必要とされるリテラシーは、英語よりも数学(サイエンス)であることがわかる。空気が読めて、阿吽の呼吸が通じる日本人が多勢を占める議論の場においては、そこに気づくことすらない。英語以上に重要な読解力や批判的思考力(国語)、生きるものの森羅万象を読み解く力(生物)、地理や歴史…。高校時代に学ぶ全ての知識は、受験のためではなく世界と分かり合うためのリテラシーであり、すぐに使える道具であることを、世界を舞台とすればするほど痛感することになる。

 

世界とのギャップを埋めるには

 世界では、複数の国と陸地で国境を接した国の方が圧倒的に多く、民族、宗教、隣国との経済格差、移民・難民問題などは「今そこにある危機」である。世界地図を拡げて日本を眺めれば、四方を海に囲まれた世界3位の経済大国は地政学的にも社会背景的にも極めて特殊な位置を占め、日々のイシューには世界と大きなギャップがあると言わざるを得ない。

 多くの新興国や途上国には、かつての日本のように右肩上がりの経済を背景に、これから国や社会を創っていく気概に溢れた若者に溢れている。彼らは、いわば日本の高度成長時代の黎明期に、ソニーやホンダなど、リスクを恐れず、果敢に世界に挑んだ先人たちの時代を、今まさに生きている。日本の起業家達がそうであったように、リスクを恐れず、まずはやってみようというスピード感をもって、世界という舞台にチャレンジの場を常に求めている。グローバル人材に育成するためのお膳立てを大学が用意するより、学生達を世界と混ぜて、自分らしいグローバルの定義を自分で探させる教育が重要なのであろう。世界から日本を眺める環境に身を置けば、自ずと視野も拡がるはずだ。

 

探究学習で高大の接続を

 APUでは、21年度より「世界を変える人材育成入試」と称する探求型入試を導入した。世界の学生との議論で必要なスキルは、高校での基礎的な知識がベースであることは前述したが、もっと重要なものは「問う」力である。同質性の高い日本社会に育った学生は一つの正解を求めることは得意だが、その前提条件を疑う力が弱い。

 中等教育に導入された探究的学びの基本は、自ら主体的に「なぜ」を問う学習者を育成することだが、特に異文化間の対話が基本となるAPUの学びの場では重要なリテラシーと位置付けられる。高大接続と言えば入試改革ばかりが話題となるが、APUでは高大で協働してinquirer(探求する人)を育成していく仕組みを作るべく、高校生と世界を混ぜる機会を提供したいと考えている

 

立命館アジア太平洋大学(APU)東京オフィス所長

伊藤 健志

Profile 2002年に立命館アジア太平洋大学APUに入職。交換留学、学生募集、学長室などを経て2017年から現職。

 

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大学ジャーナルオンライン編集部

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