高校生の皆さんは日々取り組んでいる「勉強」と、大学という場所で行われる「研究」や「学問」の違いについて、あまり深く考えたことはないかもしれません。今回は、皆さんが今まさに直面している勉強と、将来待ち受ける学問や研究の本質的な違いについて考えてみたいと思います。

勉強とは「問題を解く」こと、学問とは「問題を生む」こと
現在、高校生の皆さんがしている「勉強」と、大学でする「学問」とは、まったく性格が異なります。違いを一言で言うなら、勉強は「問題を解く」という作業であり、学問は「問題を生む」という営みです。この違いを探る上で重要なのは、「問題」とは何かということです。この問題に関して、勉強と学問の決定的な違いとは、「答えがあるかないか」です。つまり勉強の問題には答え(正解)があるのに対して、学問における問題(問い)には答えがありません。
本来、我々の生き死にに関わることをはじめ、世の中の出来事のすべてについて、そこでの問いに答えはありません。しかし、その全体の中から個別に完結するように作られたものが、勉強における「問題」なのです。これは例えるなら、臼から引き上げた大きな餅を、食べられるように小さく引きちぎっているのと同じです。この食べられるサイズになった問題を解く作業によって人間が賢くなると信じられている現代の社会では、勉強における行動原理は「達成の追求」であり、テストで点を取ることや資格に合格することが表現手法となります。そこでの営みは「覚える」ことであり、主体の立場はある意味で受動的なものです。
学問への昇華と大学の意義
学問において大事なのは、研究者自身が「なぜ自分はその原理を知りたいと思うのか」を認識していることでしょう。「好きだから」という個人の興味に留まらず、日々の活動を通じて人間の存在や自然そのものの謎に触れることが学問です。研究が対象との戦いであるなら、学問はそれを通じた自分自身(あるいは自分も含めた全人類)との戦いです。そこまで考えるからこそ、すべての人に通じる「普遍」となり、国費を投入することにも値するのです。
世の中には、興味関心に従った研究や、課題解決を狙う研究が存在します。しかし、興味関心の追求はどこにおいてもできますし、課題解決は一般企業や国立研究開発法人などの役割とされています。ですから、もし大学がそれらと異なるものでなければ、社会に存在する意味は薄いと言えます。
大学でやるべき「学問」とは、一つはそこに自己を疑う目があるかどうかで判断されます。「自分がやっていることは結局何なのか」「そもそも自分はなぜ関心を持ったのか」と、自分自身を外から見つめるような視線。それを持つことが本当の意味で「考える」ことであり、そのように考え探究することこそが学問なのです。
生きること=食うことが主目的になりがちな日常において、それを問い直すにはいったん日常から離れなければなりません。それが大学という時空だと私は思っています。大学でやるからには、どのようなテーマであっても「学問」でないといけない。そうでなければ、他の組織体との区別がつけられないからです。
高校生の皆さん、そして先生方。目の前にある、「答えがあり、テストで点を取るための勉強」もまた、ここで述べた学問から切り出されたものの一つであるとの認識に立ち、それを人生においてより意味あるものにしてほしいと思います。そのためには単なる記憶力の競争から一歩踏み出し、この「勉強」の意味や意義を追求する。このことは「学問」への連続性を保つための非常に有意義な姿勢であると私は考えています。
京都大学 学際融合教育研究推進センター 准教授
宮野 公樹先生
1973年神奈川県生まれ。専門は、学問論、大学論。京大総長学事補佐、文部科学省学術調査官の業務経験も。近著「問いの立て方」(ちくま新書)。2025年5月、NHKによる7ヶ月間の取材が番組に(ETV「ねちねちと、問う―ある学者の果てなき対話—」)。
